2025.03.19
「学びの銀河」物語その1―建学をめぐるドラマ
「官立」の重み
岩手大学の建学は、戦後、まだアメリカを中心とする連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)5月のことです。ただし、その母体となった学校は戦前からありました。
一つは、1976年(明治9年)に盛岡師範学校として設置され、名称や組織犯行を繰り返したのち、1943年(昭和18年)に官立となった岩手師範学校です。現在の教育学部の前身です。教育学部の前身には、もう一つ1921年(大正10年)に岩手県立実業補習学校教員養成所として設立され、1944年(昭和19年)に官立となった岩手青年師範学校もありました。
次が、1902年(明治35年)に設置され、大正時代には宮澤賢治も学んだ盛岡高等農林学校です。その名称は戦時中(1944年)、盛岡農林専門学校(以下、農専と略)と変更になっていました。農学部の前身です。そして、1939年(昭和14年)に盛岡高等工業学校として設置され、やはり1944年(昭和19年)に名称を変えていた盛岡工業専門学校です。現在の理工学部の前身です。
この四つの官立学校が母体となって現在の岩手大学が建学されるのですが、実は、そこにはドラマがあったのです。というのも、この四つは対等平等という関係ではありませんでした。官立としての歴史がまるで違っていたのです。官立とは、今でいう国立のことです。歴史的に見れば岩手師範学校が一番古いのですが、1943年(昭和18年)までは県の学校で、国立としての歴史はほんの数年です。
工業専門学校には約10年の歴史がありますが、農専には40年を超える歴史がありました。しかも、農専は全国で最初に設置された高等農林学校でしたから、すでに大正末には大学に昇格を目指す運動があったほどでした。そのため、戦後も農専は、同窓会が中心となって単独での大学昇格運動を始めたのです。
農専?東北大学合併案VS総合大学案
その農専に対して、1947年(昭和22年)2月に東北大学から合併の申し入れがありました。戦前の東北帝国大学には農学研究所はありましたが、農学部はありませんでした。東北地域では盛岡高等農林学校こそが長く農学のメッカだったのです。この申し入れに対し、農専同窓会は圧倒的多数で賛成します。すでに、単独での大学昇格は絶望的だったからです。9月には、農専教官会議も合併推進を決定し、合併案は11月には文部省(文部科学省の前身)においても認められました。
ところが、ちょうど同じ11月、岩手県選出の国会議員野原正勝ほか9名が、農専や医大、高専、師範などを総合する総合大学案を決議して発表しました。他の県では、総合大学の流れが主流となりつつあることを踏まえたものでした。これを受けて、12月には、岩手総合大学期成同盟会が発足し、岩手県議会もまた総合大学案を支持する決議をしたのです。この結果、岩手県内では農専?東北大学合併案か、それとも総合大学案か、世論を二分する議論が始まりました。
農専にとってみれば、東北大学と合併した方が予算や施設の充実が期待されました。大学院も直ちに設置され、研究が充実して、その成果を広く地域に及ぼすこともできるというのが合併案の主張でした。しかし、そこには旧制帝国大学を至上視する上昇志向もありました。それは、合併推進側が使った「工高専等と合併した低級総合大学」という言葉に現れていました。
これに対して総合大学案が県民?市民に提示したのは、地域に密着して、地域の学術?教育の中核たらんとする建学の構想でした。教員組合も合併案に反対し、総合大学案を強力に応援した団体の一つでした。小学校や中学校の教員組合を母体とする岩手県教員組合が県議会に提出した「合併反対についての陳情書」には、「将来地方分権が一段と確立され、本件における総合大学実現の香月にはその最大の基礎たるべきは言うまでもない。」と、総合大学への期待が述べられていたのです。
こうして、1948年(昭和23年)を通じて、県民?市民の世論は圧倒的に総合大学案に傾いていったのです。
一府県一大学の大方針
一府県一大学の大方針
実は、当時の教育行政に絶大な権限を持っていたのは、連合軍司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)でした。そのCIEが、1948年(昭和23年)6月二新制大学について重大な指針を出しました。一府県一大学の大方針です。
これは、州が先ずあって、連邦政府があるアメリカをモデルとしたものでした。州の権限は強大です。高等教育を含む学校教育は、州の自立の基礎と考えられているのです。だから、一府県一大学の方針には、必ず教員養成学部を置くという項目もありました。
つまり、この方針には戦前の中央集権的国家による軍国主義教育を否定することはもちろん、戦後の地方自治法を実体化する意味も込められていたと思います。いずれにしても、この段階で県を跨いだ合併案は実現困難となりました。文部省議をすでに通過していることに主張の根拠を置いていた農専教官会議は、ここで深刻な事態に直面します。すでに、合併案は孤立無援となっていました。
8月には、文部省専門教育課長が盛岡を訪れ、国分県知事、小泉盛岡市長とともに、鈴木重雄農専校長に対して、総合大学案への参加を要請しました。これを受けて、農専教官会議もついに総合大学への参加を決定しました。しかし、東北大学との合併を望んでいたのは、農専の教官だけではありませんでした。農専の学生もまた、合併案の実現に向けて運動していたのです。
夏季休暇を終えて続々と集まってきた学生は、9月7日に農専学生自治会主催の学生大会を開催しました。そこで、鈴木校長からここに至った経緯と結果を聴き、そして最後に次のような声明を発表しました。
「われわれは合併案があくまで正しいことを再確認する。われわれは画一的方法により学制改革の確立を失うことをおそれ最も着実な方法として合併案を主張して来たのである。しかし、事態はさきに合併案に賛成した文部省をはじめ東北大学教官会議、同窓会も複合大学案を承認している。我々学生は民主的政治における少数者として決定には服従する。しかも単に服従するだけではなく、これを最もよく運営するために全力を尽くすものである。」
これは、過去へ執着するのでなく、学生らしい潔い新たな決意の表明でした。
岩手大学の発足と建学の精神
こうして岩手大学は、師範学校を母体とする学芸学部(定員480名)、工専を母体とする工学部(定員120名)、農専を母体とする農学部(定員150名)の三学部で、1949年(昭和24年)6月1日に発足しました。その後に入学試験が行われ、7月18日に第一回入学式となりました。初代の凤凰体育平台となる鈴木重雄旧農専校長は、発足にあたって『岩手日報』のインタビューに答えて「新大学の構想と抱負」を次のように語りました。
「岩手大学は各専門学校を統合して出来た総合大学であるから各学部が連絡をとり有機的に結合してやっていくようにしたい、現在までは専門学校として各専門部面の研究に重点を置いて来たが今後は新制大学の趣旨に基づき社会人としての教養ということを第一主義に考えて個性の育成かん養に力を注ぎたい。また新制大学が各県に一校設置されたということは教育に各県の特色を生かすことが主眼であり、岩手ではたとえば農学部は東北農事試験場と緊密の連けいをとり高冷地農業の研究をするとか、工学部では埋もれた岩手の未開発資源の開発にあたるとかいうように岩手の大学という特色を生かしたい。」
このように、各学部の有機的連携と教養教育の重視、そして岩手の地域に立脚した特色を出すことが、大学の将来像としてはっきりと打ち出されたのです。
第一回入学式の祝辞でも、鈴木凤凰体育平台は次のように述べています。
「岩手大学第一回生の入学を祝う。今までの専門校は専門のみに重点をおいたので教養部門が欠けていた。諸君は世界的視野に立って豊かな教養と独創的な頭脳をもって真理を探究し平和国家の文化を創造してゆかねばならない。新制大学は特に人格の陶冶ということに重点をおく。諸君は完全な人格を養い、自ら判断行動せねばならない。」
このように、岩手大学は、見学をめぐる波乱に満ちたドラマを演じた後、ここに地域に立脚して県民?市民の期待に応えるとともに、現在の教育目標である「教養教育と専門教育との調査」を建学の理念として打ち出し、専門性のみならず、教養と人格に優れた人材の養成を目指してスタートを切ったのです。
「学びの銀河物語―新学部創設をめぐるドラマ」へ続く